実はタイトルはダジャレです!笑
コンコンコン誰か来たきつね?
移籍騒動
2006年 08月 31日 (木) 22:01 | 編集
例えば世界的なスーパースターであってもひとりでは何も出来ない。
たくさんの人の支えがあって初めて活躍できる。

これは至極当然の事なわけだけど
スポーツ選手なんてのは
若くして脚光を浴びすぎるくらい浴びしてしまうので
そういう事を見失ってしまうのだろうか。

レジェスやアシュリー・コールは
サッカー選手として素晴らしい選手であり、
多くの人の憧れだし
ビジネスとしてもイワユル稼げる男である。
世界的な存在意義を持った人間だ。

でも、それは彼が個人で成しえたことではない。

たくさんの人の支えがあったからだ。

そういう事を考えた場合
「どこが嫌だ」とか
「どこへ行きたい」とか
どんな事情があったにせよ
簡単に言うことではないように思う。
彼等と同年代の多くの人は
不満を感じながらも自分の与えられた場所で
仕事をしている。

世界的なスターかもしれないが
精神的には未熟に思える。

彼を支えてきた裏方さんが気の毒だ。


アンリが、いろいろ批判を受けながらも
多くの人の支持や人気を集めるのは
指揮官やチームメイトへの感謝の気持ちを
言葉や態度でいつも示しているからだと思う。

レジェスやアシュリーはアーセナルでアンリから何を学んだのだろう?
amazonの謎
2006年 08月 29日 (火) 20:09 | 編集
横にあるアマゾンの商品紹介ですが
お任せリンクに設定すると
ブログの内容を反映した内容に
自動的に設定してくれるらしいのですが
いつも必ず、「倖田來未さん」の商品が並んでいるのは何故だろう?
「倖田來未さん」の記事なんてひとつも書いてないのに???
2006年 08月 29日 (火) 19:27 | 編集
以下は僕の日記です。
日付は今年の8月18日でした。


実家暮らしは楽だ。
これには驚いた。

学生時代一人暮らしを続けていたので尚更その落差(楽さ?)を感じる。

まず、帰ったら飯が全自動で出る。
しかも、うまい。
栄養バランスも完璧。

洗濯にしても・・・。
掃除にしても・・・。
キッチンとかトイレとか
ちょっと油断してるとすぐに汚れるけど
そういう心配がない。

裁縫もしなくて済む。

毎日しないけど、
たまにやっておかないと困る事をやり忘れて
四苦八苦する事がまずなくなった。

しかも金も溜まる。

でも、
これはいけない。

楽すぎる。
アホになる気がする。

それにうざい。
一人になりたいときになれない。

もちろん部屋にいれば一人だが
誰とも口を利きたくないときもある。

家族と一緒にいる事はとても大切だというのは
一人暮らしをして凄く実感しているが
ある程度距離があるから
「その大切さを大切にできる」
という部分もあるなあ、と思う。

でも、在学中に祖父が亡くなった時、
もっといっぱいいろんなことを話しておくべきだった
と凄く後悔した。
だから祖母が元気なうちは
祖母といっぱい話が出来るように
一人暮らしは当分考えない。



祖母が亡くなったのはそれから三日後だった。
今でも一人暮らしは考えていない。
家に帰ったらまだ会えそうな気がするんよね。笑
24時間テレビ
2006年 08月 28日 (月) 00:18 | 編集
音楽とは演奏する者が楽しむ事より
聞きにきてくださるお客さんを楽しませる事の方が
遥かに重要である、
と思っている。

これは音楽に限った事ではない。
エンターテイナーにとって
自己満足は最も避けなければならない事の一つだと思う。

そういう意味で二十四時間テレビとか
そういう類のテレビは
まるで見る気がしない。

いつもの番組を放送して
どこがどう二十四時間なのか?

出演者が二十四時間
何かやってそれが何になるのか?

今のテレビには
プロ意識の欠片も感じないが
二十四時間テレビはそれらの集大成のようだ。
アーセナル対シティ
2006年 08月 27日 (日) 15:30 | 編集
また、毎週
週末を楽しみに出来るシーズンがやって来ました!

そういうわけで、楽しみにしていた
アーセナル戦第二節

Manchester city 1-0 Arsenal

なんて試合だぁぁぁぁぁ!!!
不運と言えば不運な試合でしたね。

アーセナルの良い部分も良くない部分も出ていました。

開幕戦と同じく
パス回しを意識した機能的なサッカーだったように思いますが
如何せん決定力がなかった。
というか、もう、あそこまでいくと決定力不足というより不運としか言い様がない気もしますが・・・。
でも、開幕戦と同じく
「まだシュート打たないの?」
とやきもきしてしまいました。
そこも、アーセナルらしいと言えばアーセナルらしいのかな?苦笑

アンリはさすがですが、
コンディションまだ上がりきってないんですかね。
焦って無理をしないように願いたいたいです。


問題は最終ライン。
というか両サイドバックですね。
左サイドは不安。
右サイドは不満。

「結果こそ出なかったけど次に繋がる試合」
もう去年で充分ですから、
結果をお願いします。

アンリが現役のうちに・・・。

いい試合をしているのだから
次こそは勝利を!
日本人
2006年 08月 26日 (土) 00:07 | 編集
仏教は有為である事より無為である事が良いとされる。らしい。

例えば、今では無学と言えばイワユル「アホ」の事を意味するが
仏教の世界ではこれ以上学ぶ事の無い人の意味を持つ。

何かが「有る」という事はそれにとらわれてしまい良くない事である。

愛すらも仏教の世界ではよい物と見なされないらしい。
愛があるから、何かを独占したりとか争ったり
という事が起こるから。
だそうだ。

この話を聞くと
アメリカと日本の平和に対する考え方の違いも見えてきそうに思うのは気のせいでしょうか?

簡単に言うと
日本人は戦争や争う事そのものを良くない事と考え
正義の戦争等絶対考えません。
アメリカは(というか多くの国は)自国を守る為の武装に
ほとんど抵抗を感じません。
何が悪いんだ?って言われますよね。

日本人の戦争嫌いは
第二次世界大戦でやりたくも無い戦争をやらされ
ボロボロになってもうコリゴリだ、と思ったからだ
という考えが主流ですが
もともと、そういう土壌があったのではないか
と思ったりします。

僕はあまりよく知りませんが
般若心経には「無」と言う言葉がよく出てきます。
成すがままというか自然との調和というか
そういうものを強調しています。よね?

有名な著書「国家の品格」に
今の論理的思考は
西洋の思想、キリスト教の人間が自然を支配するような思想が
基本になっているが
それが世界のスタンダードになってしまい、
そこに本来の日本の思想との間に歪みが生じているのではないか
というような事が書かれていました。

結局、政教分離とか、宗教の否定をしても
哲学や人の在り方、国の在り方を考える時に
根本にある宗教的な背景を否定できないのだと思います。

そういう意味では
今、日本人が学ぶべきは
仏の教えなのかもしれません。
今更ですが・・・プレミアリーグ開幕
2006年 08月 25日 (金) 08:31 | 編集
いろいろあって
あれだけ楽しみにしていたプレミア開幕を満喫出来ませんでした。

我が愛するアーセナルは新スタジアムで迎える
開幕戦でどんな戦いを見せてくれるのか!?

ちょっと、落ち着いてきたので
HDDに録画しておいた試合を見ましたが
うーん・・・。

やろうとしていることは凄く分かるんだけど
単調というか臨機応変さが足りないというか・・・。
今年は期待もしていいけど、
少し我慢も必要かな?
という感じでしょうかね。

アーセナルらしい試合をしようという気持ちはすごく分かるのですが
選手が若いという事もあってか
そこにとらわれてしまっているというか・・・
まだ、学んでる途中というか・・・

まあ、この辺は慣れてきたら臨機応変さも出てくるのでしょうかね。
選手の戦術理解能力のセンスにかかっているのかな?
ベンゲルが選んだ選手だから大丈夫でしょう。笑

ところで
最終ラインは大丈夫なのかな?
開幕していきなり
「これ以上怪我人が出ると困る」
状態ってどうなんでしょ?
一年間もつのかな???
心配です。

アシュリーとギャラスのトレードにしときゃ
一番いい気がしますがね。
そんな簡単なもんじゃないのかな?
ばあちゃん
2006年 08月 22日 (火) 00:01 | 編集
最近、祖母の調子が良くなかった。
食欲がかなり落ちていたが夏バテかな?
って思ってた。

毎日、点滴を打って栄養を採っていたが
お盆で行きつけの病院も休みになるという事で
入院する事になった。

入院と、言っても
点滴で栄養を採る為の入院であって
特にどこが悪いという事はなかった。
月曜には退院するはずだった。

合唱団の合宿が土、日にあったんでその前にちょっと会っておきたいな
って思って
土曜の午前中に病院に行った。

「ただの夏バテやで!元気出しや。」
「ごめんな。迷惑かけて。情けないわ」
「ただの夏バテやろ?何言ってんねん。」
何の心配もしてなかった。
普通に歩いてたし・・・。

でも、それが僕が、ばあちゃんと交わした最後の会話だった。

合宿から帰ったら
電話があった。
「病院にすぐ来い。」

急いで病院に行った。
脳梗塞だった。
「長くて一週間、心の準備を」と言われた。

心の準備って何やねん。
そんなん出来るわけない。
でも、ばあちゃんの姿を目の当たりにすると
現実のものとして受けいれざるを得なかった。

意識はあまりなかったけど、
ほとんどしゃべれなかったけど
声をかけたら気づいてくれた。

「ただの夏バテやで。ばあちゃん、早く元気になってな」

何言ってんだろう・・・。
自分でも何言っていいのか分からなかった。
それしか言葉が出なかった。

そして一晩たった今日、
息をひきとりました。

呼吸が止まってからも
「早く元気になって!頑張って!」
それしか言えませんでした。

息をひきとるその瞬間とは
何ともあっけないものですね。

ただ、その瞬間にそばにいれた事に
少しだけ救われた気がします。

ばあちゃんには
じいちゃんに出来なった分
いろんな事をしてあげようと思った。

やり残した事がないとは全然思えないけど
それでも、
じいちゃんの時のことを思えば
寝たきりで苦しむこともなかったし、
最期まで一緒にいれたし、
プレゼントもいっぱい出来たし
初任給で食事をご馳走する約束も果たせたし(笑)
89才まで元気いっぱいだったし
最期の表情もとても穏やかで綺麗だった。

きっと、本人の最も望む形で最期を迎えられたと思う。
そう信じたい。

ただ、本人は自分が家族に迷惑をかけているのではないかと
ものすごく気にしていた。
僕は一緒に住めるだけで幸せだったから
迷惑とか何もなかった。
その事だけはしっかりと言葉で伝えたかった。

言わなくても分かるやろ?
とか
改めて言うまでもないよな・・・
なんて思っていたけど
今となっては
少し心に引っ掛かる。

純情きらり
2006年 08月 18日 (金) 23:37 | 編集
相手を思いやる気持ちがお互いに強すぎて
それが却って相手を苦しめる事になる。

自分自身も、昔は
気を使うこと、相手を思いやる事は
良い事で、やりすぎる事はない
と思っていた。

でも、その思いやりが重荷になることもある。

相手を思う気持ちを痛いほど感じるから
余計につらくなる。


家族が幸せである事が自分にとっての幸せであり、
その為なら自分が我慢する事は何て事ない。
むしろ、自分のせいで家族に迷惑をかける方が
いくら自分のやりたい事をやったとしてもよっぽど辛い。

親という存在がいるなら
家族を思いやる気持ちが一方通行でも大きな抵抗を感じないのでしょうが
兄弟姉妹となると、そうもいかないですからね。

親ってすごいなあ・・・って改めて感じます。
靖国参拝の世論調査について
2006年 08月 17日 (木) 20:52 | 編集
総理の靖国参拝の世論調査の中で
肯定派の中に
「中国や韓国の反発でやめるのはおかしい」
という意見や
否定派に
「中国や韓国との関係が悪化」
等という意見があるが
これってどうなんだろう?

物事の本質を見落としている気がする。

だれそれが言うからやめる。
だれそれの言うとおりにするのはシャクだからやる。

子供の喧嘩かよ・・・。

特に
「中国や韓国の反発でやめるのはおかしい」
という意見は意味不明だ。
否定派を否定しているだけで肯定の理由になっていない。

靖国神社がどういう性質のもので
そこへ総理大臣が参拝する事がどういう意味を持つのか
それを議論しないと意味がない気がする。

もっとも、中国や韓国の必要以上のブーイングがあるからこそ
ここまでの注目される問題になったわけで・・・。
彼等のブーイングが本質的なモノではない事が
上の様な論点の捻じ曲がりを生んでしまっているのも事実ではあるが、
そこで、同じように捻じ曲がってしまうのはどうだろう?

「中国や韓国の方がよっぽど・・・」
等という意見を聞くと寂しくなる。


それと、もうひとつ。
自民党総裁選の争点に
「靖国参拝」ばかりがクローズアップされているのが
気になる。
テレビの視界
2006年 08月 16日 (水) 12:36 | 編集
高校野球を球場観戦していると、
テレビでは気付けない事、
テレビでは見えない事がたくさんあることを改めて実感しました。

例えば・・・
練習時のノックで
「どうもこの選手は動きが硬いなあ」
なんて思っているとその選手がエラーしたり、

外野にボールが飛んだ時に
「内野の中継プレーが悪いぞ」
と思ったら
ランナーがすかざず次の塁を狙ったり、

テレビ観戦してたら
後で解説者に指摘されたら気付くだろうけど
画面に映さない限りは絶対気付けないなあ
なんて思いながら見ていました。

テレビの視野の狭さをすごく実感しました。

これが高校野球ですから
大きな社会的な影響はないかもしれませんが
政治的な放送や
犯罪の関する報道では
報道する側の意図があろうとなかろうと
偏った視野から情報を得ているという自覚を持って
テレビを見ないと恐いなあ
なんて感じました。
会話のキャッチボール
2006年 08月 14日 (月) 12:32 | 編集
久々に懐かしい人と会って話をすると、
それがとても有意義な話である事が多いけど、
そうでなくても、
どんなに他愛のない話であっても、
その人の持つ独特のリズムやテンポ感が
懐かしかったりする。

そんなとき、
つくづく自分は会話というキャッチボールを満喫しているんだ、
という実感が湧いてくる。

会話は生きものの様だ。

いつも形が不定型で変化する。
その微妙な変化を感じたり、楽しんだり。
俺はそんな会話が好きだし、
そんな会話が出来る知人がいる事がこのうえなく、
嬉しいし、楽しい。

会話のキャッチボールが楽しめる人というのは
今の世の中では結構貴重な気がするので
そういう知人は大事にしたい。

小学校の思い出深い先生
2006年 08月 13日 (日) 11:19 | 編集
小学校の先生ですごく好きな先生がいた。

腹は出てて髪の毛もグシャグシャのいわゆる
「おっさん」
な先生だったけど
正義感が強く、曲がった事が大嫌いな方

生徒間で揉め事があると二時間でも三時間でも授業を潰して
解決するまで生徒に話しあいをさせた。

あと、ウンコの話が大好きだった。

それは余談だが
いじめがあったり
身障者やお年寄りを侮辱する発言があったりすると
鉄拳制裁をも辞さない熱くて真面目な先生だった。

でも、先生の鉄拳には愛情があった。
体罰とは決定的に違っていた。

いじめが発覚した時も
「うちの生徒に何しよんねん!
 泣いてるんやぞ?
 傷ついとるんやぞ?
 俺に殴られて痛いか?
 でもなあ、
 あいつの心の痛みはそんなもんやないんや!」
みたいなの・・・。

今思えばすげえ時代だ。
核は抑止力として機能してきたのか?ちょっとひねくれた視点から見てみる
2006年 08月 10日 (木) 18:12 | 編集
「核兵器が抑止力になる」
「核があるから平和なのだ」
と、言う人がいます。
でも、僕はそれは結果論ではないかと思うのです。

どんな事でもそうですが
何か理論なり考えが正しい事を証明するには
それを裏付けるデータや証拠が必要です。
さらに言うならそのデータは一つや二つでは足りません。

いくつものデータがあってその理論が成り立つ事を示す事が出来ます。
これを再現性と言います。

例えば核兵器がある世界が100個あったとして
その100個の世界全てが核兵器を使わない平和な社会として
存在しているのなら
「核兵器があるから平和」
という論理も納得できるかもしれません。

しかし、僕らの現在持っているデータは「この世界」ひとつしかありません。
たまたま、核兵器が使用されなかっただけ
の可能性も否定できないのです。


だから、
「今の世の中を見てみなさい。実際に核兵器が使われていないではないか。核は抑止になるんだ!」
という考えは偶然の要素を含んでおり
充分な説得力を感じないのです。

屁理屈かな?
原爆に対するリアリティ
2006年 08月 09日 (水) 18:55 | 編集
去年、僕は原爆資料館に行きました。
ずべてみるのに四時間かかりました。
それでもまだ足りないくらいでした。
大変失礼な表現かもしれませんが
目を背けたくなる展示もありました。
それでも、なるべく、しっかり見ようと思い、ゆっくりゆっくり周りました。

リアリティを感じなければいけないと思ったからです。

最初、あまりに酷過ぎて
この世に本当に起こった事だと思えなかった。
こんな感覚のまま見ても意味がない、
そう思ったのでゆっくり周りました。



世の中はとても複雑で一筋縄ではいかない事は山のようにあります。
時には犠牲が必要かもしれません。
でも、
自分の体が熱戦で焼けつくされる事が正当化される理由が
この世にあるとは思いたくない。

あるわけがない。

世の中の核兵器を肯定する全ての人に問いたい
「自分の体が核の炎で焼かれても、それでも核が必要だと言えるのか」


所詮他人事なんですね。
エノラ・ゲイの元機長
2006年 08月 08日 (火) 19:11 | 編集
エノラ・ゲイの元機長が
「戦争を終結させる為には原爆の投下が必要だった」
と述べている。

このことについてはどうこう言うつもりはない。

機長は命令に従い任務を遂行しただけだ。

自分がやった事が本当に正しかったのか
毎日毎日自問自答したに違いない。
機長に原爆の是非を聞くのは
かなり酷な事だ。

「原爆の投下が必要だった」
そう言い聞かせないと狂ってしまいそうになるだろう事は
容易に想像出来る。

原爆を肯定する理由がこの世にあるとは思えないが
機長の言葉だけは痛々しさを感じる。

一人の人間が背負いきれる物ではないだろう。

大事な事はもっと他にあると思う。
今更、彼のインタビューをしてどうなるのか?
黒い雨
2006年 08月 07日 (月) 20:30 | 編集
去年
原爆資料館に行った後
井伏鱒二さんの「黒い雨」
を読みました。

言うまでもなく原爆投下後の広島について書かれた本です。
相当きつい内容でした。

井伏鱒二さんは写実的な文章を書くことで有名ですが
この話も極めて写実的だったと言えます。

登場人物や
作者自身の
原爆に対する怒りや苦しみ等が強調される事なく
ただ、客観的に、忠実に、淡々と
情景が記されている、という感じで
それがより、原爆の常識を超えた威力や悲惨さを強調させている
そう感じました。

原爆投下後の何が起きたのかすら分からない
混沌とした広島の様子がよく分かります。

そして、ところどころに生き物達のいきいきした姿が描写されており
原爆の情景と生き物の描写というコントラストが
命というもののリアリィティをより残酷に描いているよう感じました。

感情的に平和を訴えるよりよっぽど堪えました。
広島の町
2006年 08月 06日 (日) 22:39 | 編集
今日、広島平和記念式典に行って来ました。

61年前のこの日に原爆が落とされました。
その傷跡が広島の町の至る所に残されているわけですが
それでも、
あの日に何が起こったのかを
現実のものとして
リアリティを持って
実感することがなかなか出来ません。

平和が、それこそ、ご飯を食べるのと同じくらい
毎日、当たり前のこととして存在している。
それは、とてもありがたい事だけど、
少し、怖いことでもある
と感じます。


式典の後、
しばらく広島の街を歩きました。
あれだけ物理的にも精神的にも壊滅的な状態だった街が
ここまでに復興した事に
感動を覚えますし
広島の方々の努力には敬意を表したいと思います。

秋葉市長の挨拶は今年も素晴らしかった。

来年もまた来ます。
明日は八月六日
2006年 08月 05日 (土) 15:05 | 編集
広島で平和を祈ってきます。
違う世の中を考えてみる
2006年 08月 05日 (土) 12:23 | 編集
部屋は何故散らかるのか?

結論から言うと
大学で自然科学をかじった事のある人なら誰もが知っている法則
エントロピーは増大する
と言う性質に基づいている。

簡単に説明すると
世の中のあらゆる物は規則正しい状態よりも乱雑な状態になろうとする。
という事だ。

例えば、
瓶の中に塩と砂糖を入れてかき混ぜると
かき混ぜればかき混ぜるほど
塩と砂糖は混じり合う。
自然に分離する事はない。

(友達にこの説明で教えてもらって理解した・・・)

これは水が高い所から低い所へ流れるのと同じような
自然界の摂理だ。

物質はより規則正しくない方へ行こうとする。
確率的に考えても規則正しくない方が起こり易いですよね?

もし、このエントロピー増大の法則が
減少の法則になっていたら
どうなっていただろう?


部屋は放っておくと自然に整理整頓され
散らかす方が難しくなる。

「今日、お前の家言っていいかな?」
「いやあ、御免!俺んちメッチャ綺麗やねん。
 ちょっと散らかさないといけないから待ってくれる?」
「またまた、そんな事言って!ホンマはメッチャ散らかっとんやろ?」
等と言う会話が当たり前になる。

とても素晴らしい世界です!

しかし・・・
神戸の夜景 in 尾崎豊
2006年 08月 04日 (金) 01:16 | 編集
神戸の夜景を見に行きました。

例えば横浜のランドマークターワーから見る夜景は
とても綺麗ですが
やっぱり夜景でしかないんですね。

でも、山の上から見る神戸の夜景は
もはや夜景ではなく宝石です。
ひとつひとつが輝き持った宝石に見えます。

僕の頭の中でふと
尾崎豊さんの歌の一節が浮かびました。

*************************
人生は五線紙さ
人生はキャンバスさ
人生はときを演じる舞台さ
心のハーモニー 奏でよう
ガラス作りの歌 奏でよう
無限の色を散りばめた
街の風景
*************************

街の風景という歌です。

夜景の放つひとつひとつの明かりが
ひとりひとりの個性であり、
ひとりひとりの人生の輝きを表している。


いろんな個性を
街というキャンバスに散りばめたものが
夜景なのかなあ
なんてしみじみ感じました・・・。
ツッコミ論?
2006年 08月 02日 (水) 22:36 | 編集
年上の人がボケた時
ツッコミを入れてよいのか
迷う時がある。

「失礼じゃないかな?」

この僅かな迷いは
タイミングが生命線である
ツッコミの威力を半減させる。

仕方ないので
危ない橋は渡らない。
何も言わずに愛想笑い。

「君はまじめすぎる」
とか
「おもしろくないヤツやな」
とか

そう言われることもあるけど
機嫌を損ねるよりはまだましだ。


でも、この人はいける、攻めても大丈夫だ。
そう思った時はガンガンいく。

社会人は難しい。笑

でも、オヤジギャグをオヤジギャグで返すのは
年配の人にはウケが良かったりする。
世の中は振り子の様だ。何でもやり過ぎる。
2006年 08月 01日 (火) 23:07 | 編集
中学の時の社会の先生が
清教徒革命からクロムウェルの独裁や王政復古に至るまでの
過程を説明するにあたって、こういうたとえを使った。

「歴史は振り子である。」

何か運動を起こすと必ずちょうどいい所で終わらず
行き過ぎてしまう。
そしてその行き過ぎに反発して
振り子が元の場所に戻るような反対運動が起きる。
しかし、その反対運動もまた、ちょうどいい所で止まる事なく、行き過ぎてしまう。
社会はこれを永遠に繰り返すのです。
だから、歴史は繰り返されるのです。

という話だった。

さて、これは現代の社会にも通用する。

根性論に反発した「ゆとり教育」
男女差別に反対した「女性運動」
環境破壊に反発した環境テロ団体「グ○ンピース」
日本の戦後教育に反発した「戦前の日本は全く悪くなかった理論」
等等
枚挙に暇が無い。

この世に絶対はあまり存在しない。
バランスが何より大切だ。

偏った考えを批判的に見ることは大切だけど
それによって自分自身のバランスまで崩してしまうのは問題である。

戦争に善悪はないかもしれないし、
南京大虐殺の数字だって中国の政治的戦略かもしれないが、
それでも人を殺す事を肯定できる理由はあってはならない。
それを前提に「やむを得ない戦争」についても論じていかねばならない。
と思う。

当たり前の事なのに
社会はブレーキの効きがかなり悪い。
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